パンがなければいもを食べればいいじゃない -火星共和国誕生
第一章:パンのない朝に
朝食のトレイに、パンがなかった。
信じがたいことだった。
私の朝には、必ず温かいマーズ・ブレッドがある。黄金色の表面を持つふかふかの火星小麦パン。火星帝国の貴族だけが食べられる贅沢品。なのに、今日は――なかった。
「今日はパンが届いておりません、セレナ様」と侍女のリアが言った。彼女の声には明らかに戸惑いがあった。
「え、じゃあ……いもでいいわ。代わりにいもを出してちょうだい」
そう言ったとき、私はまさかこれが後に“火星史に残る失言”になるとは夢にも思わなかった。SNSにあんなに拡散されるなんて。いや、あれは侍女がこっそり録音していたのだろうか。まさか、私の無邪気な朝食リクエストが火星市民の怒りを買うなんて――理不尽というより、不便だ。
けれど、正直なところ私は本気だった。
いもは好きだ。ふかしいも、いもチップス、いもようかん。母上が地球から取り寄せてくれた「サツマイモの歴史」という本には、“いもは民衆を飢饉から救った”と書いてあった。
だったら、いもでよくない?
でも、どうやら“よくない”らしい。火星にはパンどころか、いもすら足りていないのだという。帝都の王宮では、何もかもが足りていた。私は王女として育てられた。でも「火星の王女」としてではなく、「火星を知らぬ王女」として。
その日から私は“イモ姫”と呼ばれるようになった。ネットには私の顔にいもをコラージュしたスタンプが飛び交い、「#いもでいいじゃない」というタグが火星中でバズった。
父上は言った。「これは危機だ、セレナ」
母上は言った。「これはチャンスよ、セレナ」
そして私は――言葉を失った。
パンはなかったけど、いもを食べた。
でも、きっとあれはいもじゃなかった。私の口に入ったものは、火星という星の怒りそのものだったのかもしれない。
第二章:イモ姫、炎上する
「イモでいいじゃない」
たったそれだけの言葉だった。
でも、それは引火材だった。
燃料は、飢えた民衆。火花は、リアの無断投稿だった。
《王女、いも発言。マーズブレッド不足に「いもでいいじゃない」》
《王室は火星を知らない》
《#イモ姫 #いもでもいいけど #お前が作れ》
一晩でトレンド1位。
火星中の端末に、私の顔が“いも”のシールでデコられて拡散されていた。さつまいも、じゃがいも、長いも……想像できる限りのいもで、私はコラージュされていた。いっそアートだった。
だが、父上はアートを愛するには老いすぎていた。
「セレナ、お前は王室の恥だ。だが――同時に、王室のチャンスでもある」
父上がいつも言う「だが」は、だいたいロクでもない。
「今日から、民衆と暮らしてこい」
「えっ」
「いもを食べたいと言ったな? 本当に食べてこい。彼らのパンも、いもも、飢えも、肌で感じてこい」
私は連れていかれた。場所は火星第17農業区、別名「レッドダスト・ファーム」。王宮のふかふかの絨毯とは正反対、赤土の吹きすさぶ農場地帯。
到着したその日、私は初めて“いも”が本当に“土から出る”ことを知った。
地面の中に、いもはいる。
掘ると、手が汚れる。
汚れると、落ちない。
なのに、その手で顔を拭くと、赤土まみれになる。
それを笑っていたら、現地の少女に「バカにしてるの?」と言われた。
違う。ただ、私は今まで――世界が加工された状態でしか存在しないと思っていたんだ。
ふかしいもは、最初からふかしてあるものだと。
パンは、勝手に膨らんで勝手に届くものだと。
飢えなんて、昔話か、他人事か、そうでなければ政治家の都合で作られた記号のようなものだと。
違った。飢えは、ここにあった。
そして、それを「いもでいいじゃない」と笑った私は、たしかに、愚かだった。
けれど――
私は、いもを掘り始めた。
地元の青年が教えてくれた。「いもは裏切らない。水と太陽があれば育つ」
私は訊いた。「じゃあ、火星には太陽も水もあるのに、なぜ足りないの?」
彼は笑った。「“その仕組み”を作ってるのが、あんたたち王族だからさ」
その夜、私は久しぶりに泣いた。
顔にいもの皮がついたまま、赤土の上で。
その翌朝、私は宣言した。
「火星帝国の主食は、パンではなく、いもにする」
たぶんそれは、まだ滑稽な夢だった。
でも、夢は火星では大事な資源だ。
酸素、水、そして――夢。
第三章:いも革命
いもは、黙っていた。
引っこ抜かれても、踏まれても、黙っていた。
皮を剥かれても、蒸されても、黙っていた。
それなのに――いもは、火星を変え始めた。
火星帝国第17農業区で、私は王女の肩書きを捨て、ただのセレナとして過ごしていた。
最初はみんな私を「いもバカ」か「ネタ姫」としか見ていなかった。
でも、ある日、農民の少年がポツリと言った。
「姫さん、マジでいも作るつもりなら、俺、手伝ってもいいよ」
それが始まりだった。
誰かの“冷やかし半分の協力”が、次第に“ちょっと本気”に変わっていく。
誰もが「どうせ無理」と言いながら、それでも鍬を握るようになっていった。
私は言った。「いもで食える社会を作る」
ライ(あの科学者の青年)は笑った。「理論的には不可能じゃない」
でも、それは科学者の“だいたい無理”と同義語だった。
それでも私は、いもを掘り続けた。
掘り、蒸し、保存し、発酵させ、乾燥させ――
そして、いもからパンを作った。
いもパンだ。ふかふかで、ほのかに甘い。
パンではなく、いもで作ったパン。
皮肉にも、私は自分の発言を回収してしまった。
「パンがなければ、いもを食べればいいじゃない」
いや、違う。
「いもから、パンを作ればいいじゃない」だったのだ。
政府は最初、無視していた。
次に、冷笑した。
その次に、弾圧した。
第17農業区は、軍に包囲された。
でも、いもは逃げなかった。
いや、正確には、逃げられないだけだったのかもしれないけれど。
私たちはいもを掲げた。
パンより地味で、地面に埋まっていて、手がかかるけど、
それでも――誰かを飢えから守れる。
私は提案した。
「いもを貨幣にします」
誰も信じなかった。
でも、いもは保存がきく。単位にできる。交換できる。腐敗が見える。
地球の金融機関より、ずっと健全かもしれない。
ライは笑いながら言った。
「史上初だな。いもを通貨にした王女なんて」
火星の赤土に、いもの旗が立った。
地面の中で膨らむそれは、暴力の象徴ではなく、根のように広がる静かな革命だった。
火星帝国政府は、ついに折れた。
私に「農業開発省大臣」という名ばかりの役職を与え、事態を“改革風味”に包んで収めようとした。
いいでしょう。名ばかりで構いません。
いもがある限り、私には土があり、根があり、民がいる。
王女セレナは、今日も赤土にまみれながら、いもを掘る。
パンはなかった。
でも、いもがあった。
そして私は、火星でそれを選んだ。
エピローグ:火星いも共和国憲章制定会議
この星には、もはや王はいない。
そして、王女もいない。
王政は解体されたわけではないけれど、誰もそれを口にしなくなった。
かつての帝国は、今や「火星いも共和国(仮称)」として再編されつつある。
あくまで“仮称”だが、それで構わない。“いも共和国”という語感のユルさが、逆にこの星の今の空気をよく表している。
今日は、憲章の草案会議だった。
帝都から来た旧貴族、17農業区の農民代表、いも経済を支える流通業者、科学者ライ、そして私。
みんな服は汚れていた。
以前なら絶対に並ばなかったような人々が、同じいすに座り、同じ机を囲んでいた。
会議は、案の定まとまらなかった。
「いもを国の象徴にするのはどうか」
「いもだけでは偏る」
「いもを貨幣とするのは、崇高であるが不安定だ」
「いも税を導入すべきか」
「いもを信仰対象とするのは宗教的問題になるのでは?」
議事録は“いも”で埋まっていた。
でも、かつて“飢え”や“怒り”や“銃声”で埋まっていたことを思えば、それは幸福な埋まり方だ。
ライがこっそり、私の隣で言った。
「この国、バカみたいに見えるだろ?」
私は笑って答えた。
「ええ、でもバカみたいな方がいいのよ。戦争の匂いがしないもの」
かつて私は王女だった。
パンを食べて、絨毯を踏んで、飢えを知らなかった。
「いもを食べればいいじゃない」と笑い、炎上し、畑に落ちた。
でも、あの一言がなければ、今の私はいない。
失言は、火星の種になった。
火星の土は赤く、固く、そして乾いている。
でも、いもはその中でも育つ。静かに、そして確かに。
今日、私はペンを握った。
火星共和国憲章草案――その序文を、私が書くことになった。
書き出しは、こうだ。
「パンがなければ、いもを食べればいい。
だが、我々はいもで未来を食べる。」
私は王女じゃなくていい。
いもでできた未来の、ほんの一部分で構わない。
火星には、いもがある。
そして、希望もある。
それで、いいじゃないか。


コメント