哲学入門シリーズ 哲学への入り口


哲学入門 総集編1

内容紹介

哲学入門シリーズ20冊を1冊に全て収録。ニーチェから夏目漱石まで、多種多様な哲学の核心をコンパクトに解説。難解な哲学をわかりやすく、現代的視点で読み解くことで、「生きる意味」や「自己のあり方」を問い直す。哲学初心者にも親しみやすい文章で、人生を深く見つめ直すきっかけとなる一冊。

収録

ニーチェ

ショーペンハウアー

ウィトゲンシュタイン

カント

フーコー

ロラン・バルト

ヘーゲル

デュルケーム

キルケゴール

マルクス

デリダ

レヴィ=ストロース

ローティ

フロイト

カミュ

ユング

ドストエフスキー

夏目漱石

アドラー

ハイデガー


哲学入門 総集編2

内容紹介

哲学入門シリーズ35冊を1冊に全て収録。キリストからダーウィンまで、多種多様な哲学の核心をコンパクトに解説。難解な哲学をわかりやすく、現代的視点で読み解くことで、「愛」や「自由」を問い直す。哲学初心者にも親しみやすい文章で、人生を深く見つめ直すきっかけとなる一冊。

収録

キリスト

ブッダ

ソクラテス

孔子

プラトン

アリストテレス

メルロ=ポンティ

フッサール

レヴィナス

リオタール

ドゥルーズ

モーリス・ブランショ

サルトル

ベンヤミン

シモーヌ・ヴェイユ

ボードリヤール

バフチン

バタイユ

ベルクソン

ブルデュー

ライプニッツ

ジグムント・バウマン

マクルハーン

ニクラス・ルーマン

キットラー

ハンナ・アーレント

ルソー

トマス・クーン

アドルノ

ラカン

アダム・スミス

マックス・ウェーバー

ドラッガー

フリードマン

ダーウィン


哲学入門 総集編3

内容紹介

哲学入門シリーズ20冊を1冊に全て収録。西田幾多郎からデカルトまで、多種多様な哲学の核心をコンパクトに解説。難解な哲学をわかりやすく、現代的視点で読み解くことで、「日本」や「自我」を問い直す。哲学初心者にも親しみやすい文章で、人生を深く見つめ直すきっかけとなる一冊。

収録

西田幾多郎

田辺元

和辻哲郎

丸山眞夫

竹内好

鈴木大拙

アラン・ワッツ

マックス・ミュラー

フレーザー

ラブレー

エーリッヒ・フロム

R・D・レイン

ヤスパース

ウィニコット

ヒューム

マルクス・アウレリウス

ウィリアム・ジェームズ

デューイ

バートランド・ラッセル

デカルト


哲学入門 総集編4

内容紹介

哲学入門シリーズ25冊を1冊に全て収録。サドからチクセントミハイまで、多種多様な哲学の核心をコンパクトに解説。難解な哲学をわかりやすく、現代的視点で読み解くことで、「常識」や「幸せ」を問い直す。哲学初心者にも親しみやすい文章で、人生を深く見つめ直すきっかけとなる一冊。

収録

マルキド・サド

マゾッホ

ヴォルテール

スピノザ

トマス・アクィナス

ゲーデル

チューリング

エマーソン

ボーヴォワール

パース

ベーコン

ホワイトヘッド

カール・ロジャー

ロロ・メイ

ビンスワンガー

ロールズ

ノージック

ジョン・ロック

ジョン・スチュアート・ミル

モンテスキュー

トクヴィル

アイザイア・バーリン

ジュディス・シュクリア

チクセントミハイ

試し読み

哲学入門総集編1 ニーチェ入門 第一章 ニーチェってどんな人?

フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844–1900)は、十九世紀を代表する思想家であり、同時に二十世紀以降の哲学や文学、芸術に決定的な影響を与えた人物である。その名前はしばしば「神は死んだ」「超人」「力への意志」といった断片的なフレーズとともに語られるが、彼自身の生涯や思想形成の背景を知ることで、初めてその意味の広がりと射程を理解できる。本章では、まずニーチェという人間そのものに焦点を当て、彼の人生の歩みを辿りながら、その思想の根にあるものを明らかにしていく。

ニーチェは1844年10月15日、ドイツのプロイセン領ザクセン州にあるレッケンという小さな村で生まれた。父は牧師であり、プロテスタント信仰に支えられた厳格な家庭環境のもとで育ったが、ニーチェがまだ5歳の時に父親が病死し、その後まもなく弟も亡くなる。こうして幼い頃から死と喪失を強烈に体験することになった。母と祖母、そして妹エリザベートに囲まれて成長した彼の幼少期には、すでに孤独と内省の影が色濃く刻まれていたといえる。

若い頃のニーチェは非常に聡明で、クラシック学(古典文献学)に卓越した才能を示した。16歳で名門のプフォルタ学校に入学すると、ラテン語やギリシア語に精通し、古代哲学や文学への関心を深めていった。特に古代ギリシア悲劇への興味は後の思想の重要な基盤となり、後年の著作『悲劇の誕生』に結実する。1869年、わずか24歳の若さでバーゼル大学の古典文献学教授に就任し、その学問的将来を嘱望された。普通ならば堅実な学者としての人生が約束されていたはずだが、ここから彼の人生は大きく逸れていくことになる。

彼を大きく動かした出会いのひとつは、作曲家リヒャルト・ワーグナーとの交流であった。ニーチェはワーグナーの音楽と思想に強く惹かれ、一時は精神的な師と仰いだ。芸術こそ人間存在を救う力を持つと信じた彼にとって、ワーグナーの楽劇はその象徴に見えたのである。しかしやがて両者の関係は決定的に破綻する。ワーグナーがドイツ民族主義やキリスト教的救済を強調する方向へ傾いていったのに対し、ニーチェはそれを退行とみなし、批判を強めていった。ワーグナーとの決別は、ニーチェにとって芸術のみに依拠する世界観を乗り越え、独自の哲学を模索するきっかけとなった。

大学教授としての生活も長くは続かなかった。持病の偏頭痛や視力障害、さらには消化器系の病に苦しめられ、1879年にはわずか10年の在任期間を経て辞職を余儀なくされる。以後、彼は「放浪の哲学者」としてヨーロッパ各地を転々としながら執筆活動に専念することになった。スイスの山岳地帯、イタリアの海辺の町、南仏など、気候の良い場所を求めて移り住みつつ、その間に次々と代表作を書き上げていく。

この時期のニーチェは、まさに孤独と闘いながらの創作に明け暮れていた。友人も少なく、健康も損ない、経済的にも豊かではなかった。しかしその孤独こそが、彼を鋭利な思考へと駆り立てた。「神は死んだ」という宣言に象徴されるように、伝統的な道徳や宗教を突き崩し、新しい価値の創造を人類に迫る思想は、この徹底した孤立のなかから生まれてきたのである。

また、ニーチェの生涯を語る上で忘れてはならないのは、彼の人間関係の複雑さである。代表的なのはルー・ザロメとの関わりだ。才気にあふれた女性思想家ザロメに強く惹かれ、結婚を申し込むが拒絶される。この経験は彼の内面に深い傷を残し、女性観や愛の哲学にも影響を与えたとされる。孤独な思想家としての姿は、こうした挫折や人間的な痛みと分かちがたく結びついている。

1880年代に入ると、彼は『ツァラトゥストラはこう語った』『善悪の彼岸』『道徳の系譜』といった代表作を次々に刊行する。そこでは、道徳批判、超人の理想、力への意志、永劫回帰など、後に「ニーチェ哲学」と総称される中心的概念が提示されていく。特に『ツァラトゥストラはこう語った』は、哲学書でありながら詩的で寓話的な文体をとり、独自の文学的表現をもって読者に迫る異色の書物となった。ニーチェは哲学を単なる学問としてではなく、芸術と同じく生の表現として追求していたのである。

だが、その革新的な思想は当時ほとんど理解されず、彼の著作は生前ほとんど売れなかった。むしろ彼は世間から孤立し、病に苦しみながらも執筆を続ける日々を過ごした。そして1889年、イタリアのトリノで突然精神の均衡を崩し、以後は正気を取り戻すことなく母と妹のもとで余生を送ることになる。1900年8月25日、ヴァイマルで55歳の生涯を閉じた。

ニーチェの死後、彼の思想は徐々に評価されるようになった。二十世紀には実存主義、ポストモダン思想、精神分析、文学理論など多岐にわたって影響を及ぼし、今日に至るまで読み継がれている。ただしその評価の道のりは複雑である。ナチス政権による思想の利用・歪曲もあったし、妹エリザベートが遺稿を恣意的に編集・出版したことも混乱を招いた。しかしその後の研究の進展により、ニーチェの思想は全体として人間の自由と創造をめぐる根源的な問いかけとして理解されるようになっている。

ニーチェという人物は、病と孤独に苛まれながらも、人類の思想史においてもっとも過激で挑発的な問いを投げかけ続けた思想家であった。彼は「既存の価値を疑え」と叫び、新しい価値を創造せよと迫った。その姿勢は単なる哲学の枠を超えて、芸術家、文学者、宗教者、さらには現代に生きる私たち一人ひとりにまで響き続けている。ニーチェを理解することは、単に一人の哲学者を知ることではなく、私たち自身がどのように生を肯定し、どのように世界と向き合うかを問い直すことに他ならないのである。


哲学入門 総集編1

哲学入門総集編2

キリスト入門 哲学入門シリーズ21 第一章 キリストとはどういう人?

キリストとはどういう人か。その問いは簡単なようでいて、2000年にわたって人々を悩ませてきた問いである。彼の名を冠した宗教は、世界で最も多くの信者を持ち、彼の生涯を描いた書物は何千年も読み継がれ、芸術や哲学、政治や道徳にまで深く浸透している。けれど、その人物像は一枚岩ではない。時代と場所、立場によってまったく異なる顔を見せる。ある人にとっては「救い主」、ある人にとっては「道徳教師」、またある人にとっては「革命家」や「狂人」にすら見える。そしてまたある者にとっては、ただの神話的存在にすぎない。

キリストという語は、もともと「油を注がれた者」、つまり「メシア(救世主)」という意味を持つ。だが、これは生まれながらの名前ではない。彼の本名は「イエス」、ナザレという小さな町の出身だったため、「ナザレのイエス」と呼ばれていた。キリストという称号は、彼の死後、彼を神の子と信じた人々によって与えられたものだ。

イエスが生きたのはローマ帝国支配下のユダヤ地方。貧富の格差が広がり、宗教的指導者たちは形式主義に陥り、民衆は救いを求めていた。そんな時代に現れたイエスは、「神の国は近づいた」と語り、人々に悔い改めと愛、そして赦しを説いた。病人や貧者、罪人と呼ばれる者たちと食卓を囲み、差別と偏見の壁を越えて語りかけた。

だが彼の教えは、当時の体制にとっては脅威だった。彼は律法を形式だけで守る宗教指導者を批判し、神殿の商人たちを追い払うなど、明確に権威に逆らった。そのため、政治的・宗教的に危険人物と見なされ、最終的には十字架にかけられて処刑されることになる。

ここまでを見ると、イエスはカリスマ的な宗教改革者、あるいは道徳的指導者であったように思える。だが物語はここで終わらない。彼の死の後、弟子たちは彼が「復活した」と宣言し始める。これは単なる神話や象徴ではなかった。彼らにとって、復活は現実の出来事であり、イエスこそ旧約聖書で予言されていたメシアであるという確信をもたらした。こうして、歴史上の人物イエスは、信仰の対象である「キリスト」へと変貌を遂げた。

この変化は、人類史において一つの転換点を意味する。イエスの言葉や行動は、もはやただの倫理的教えではなく、「神が人となった」という信仰の土台となった。これをキリスト教では「受肉」と呼ぶ。神が人間のかたちをとってこの世界に現れ、苦しみ、死に、そして復活する。これは単なる伝説ではなく、神と人間との関係を根本から再定義する思想である。

哲学の立場から見ると、ここに非常に興味深い逆説がある。神は全能であり、永遠であるとされる。だがイエス=キリストは、飢え、涙を流し、裏切られ、苦しみ、死ぬ。これは「弱さのうちにある力」という逆説を体現している。この矛盾は、後の哲学者たちを大いに刺激した。たとえばニーチェは、キリストを「奴隷道徳の象徴」として徹底的に批判した。力への意志に反する、弱者の理想化。しかしその一方で、ドストエフスキーやキルケゴールは、まさにこの弱さのうちにある真実こそが、現代人にとって最も深い問いだと考えた。

特にキルケゴールは、キリストを「受け入れることのできないほどに逆説的な存在」として描いた。彼のいう「信仰」とは、理性や論理を超えた「跳躍」であり、神が人になったという不条理を、それでもなお信じるという行為である。つまり、キリストとは、私たちが持つ理解の限界そのものを突きつけてくる存在なのだ。

さらに重要なのは、キリストが語った「隣人愛」や「敵を愛せ」という倫理観である。これは現代の道徳と表面的には似ているようでいて、まったく異質でもある。なぜなら、それは「自分を犠牲にしてでも他者を愛せ」という、極限まで突き詰められた他者への応答だからだ。そこにあるのは、計算や見返りのない愛、すなわち「アガペー(無償の愛)」という概念である。これは哲学的にも深い意味を持つ。功利主義では説明できず、義務論ですらその根拠が揺らぐような、倫理の根本を問う概念だ。

このように見てくると、キリストとは単なる宗教的偶像でもなければ、歴史的指導者でもなく、むしろ「人間とは何か」「神とは何か」「正義とは何か」「愛とは何か」という問いを、私たち一人ひとりに投げかけてくる存在だということが分かってくる。彼は何も残さなかった。書物も、彫像も、王国も。しかし彼が残した「問い」は、今もなお世界を揺さぶり続けている。

キリストとはどういう人か。その問いには無数の答えがある。だが少なくとも、彼の姿をただ受け入れるのではなく、考え、疑い、問い直すこと――そこから「哲学としてのキリスト入門」が始まるのではないだろうか。


哲学入門 総集編2

哲学入門総集編3

西田幾太郎入門 哲学入門シリーズ56 第一章 西田幾太郎とはどんな人?

西田幾多郎(一八七〇〜一九四五)は、日本の近代哲学史における最大の存在であり、京都学派の創始者として知られている。その思想は「純粋経験」や「場所の論理」といった独自の概念を生み出し、西洋哲学と東洋思想を架橋する試みとして高く評価されてきた。しかし、西田という人物の生涯は、華やかさとは無縁で、むしろ孤独な探究と葛藤に満ちていた。彼がどのような人間であり、どのような歴史的背景を生き抜いたのかを理解することは、その哲学を読み解くための第一歩である。

西田は石川県に生まれた。明治維新からまだ数年しか経っていない時代であり、日本社会は急速に近代化と西洋化の波に飲み込まれつつあった。幼少期の彼は決して神童ではなく、むしろ不器用で寡黙な性格をもっていたと伝えられる。成績も優秀とは言い難く、受験にも失敗して挫折を経験している。しかし、その不遇な青年期こそが、のちの彼の哲学の根源となった。すなわち、安易な成功や既成の権威に寄りかからず、常に「自分自身の場所」から考える姿勢である。

若き西田は東京大学哲学科を志すが、健康や経済的事情から断念せざるを得なかった。代わりに京都帝国大学で学び、その後も地方での教職生活を送りながら独自に学問を深めていく。友人には夏目漱石ら文学者や、田辺元らのちの哲学者がいたが、西田自身は常に孤高の位置に立ち、独自の思索を積み重ねていった。この時期に彼を支えたのは、西洋哲学の文献と、彼が生まれ育った環境に根ざす東洋的感性である。彼はカント、ヘーゲル、ウィリアム・ジェイムズらを読み、同時に禅の実践を通じて「ただちに与えられる経験」のあり方を追求した。これら二つの異なる世界が、やがて「純粋経験」という思想的中核を形成する。

哲学者としての西田が世に知られるきっかけとなったのは、一九一一年に出版された『善の研究』である。この書物は、当時の日本における哲学の水準を一気に引き上げた画期的な著作だった。西田はそこで「純粋経験」という概念を提示し、主観と客観に分裂する以前の、直接的で生の体験こそが真の出発点であると主張した。この発想は、西洋の近代哲学が抱える二元論の克服を目指すものであり、同時に禅的な直観とも響き合っていた。こうした独自性は、日本の哲学が単なる輸入学問ではなく、世界哲学の一角を占めうることを示したのである。

しかし、西田の人生は順風満帆ではなかった。彼は若くして妻を亡くし、その後も子どもを病で失うなど、幾度も深い喪失を経験した。こうした個人的な苦しみは、彼の思想をより深い内面の探求へと駆り立てた。孤独の中で彼は「私は何者であるのか」「人間はどこに立っているのか」という問いを繰り返し自らに投げかけ、その答えを生涯にわたり模索し続けた。その姿勢は、哲学を単なる理論体系ではなく「生の切実な表現」として捉える西田の態度を形づくっている。

一九二〇年代から三〇年代にかけて、西田は「場所の論理」を中心とした思索に移行する。これは「存在するとは、どのような場所において存在するのか」という問いであり、単なる存在論ではなく、存在そのものを包み込む「場」をめぐる考察であった。この発想は、空間論や関係論を超えて、自己と世界の根源的な交錯を明らかにしようとする試みである。彼が「絶対矛盾的自己同一」という表現を用いたのも、自己と他者、有限と無限といった対立を超える動的な全体性を示そうとしたからである。

西田の哲学的営為は、日本だけでなく海外でも注目を集めた。特にドイツを中心とするヨーロッパ哲学者との交流を通じて、西田の思想は「日本独自の哲学」として受け入れられた。もっとも、彼の文体は難解であり、専門家ですら理解に苦しむと評されるほどだった。しかし、それは単に抽象的だからではなく、西田が「ことば以前の思考」をどうにか表現しようともがいた痕跡にほかならない。

晩年の西田は、戦争という時代の渦中で生きることを余儀なくされた。彼自身は戦争を積極的に賛美したわけではないが、国家や天皇をめぐる論考を発表したため、戦後には批判の対象にもなった。それでも彼の主眼は、歴史のただ中で「人間はいかに自己を世界において位置づけるのか」という問いにあった。その問いは、個人の運命と国家の運命が否応なく重なり合う時代状況から必然的に導かれたものであり、彼自身の哲学をさらに切実なものにした。

一九四五年、西田は七十五歳で亡くなった。敗戦のわずか数カ月前のことである。彼の死は、まさに近代日本の一つの時代の終わりを象徴するものでもあった。しかし、その後も京都学派の弟子たちが彼の思想を継承し、発展させていった。西谷啓治、和辻哲郎、田辺元らの存在がなければ、日本哲学は今日のような姿をとらなかっただろう。そして現代に至っても、西田の哲学は「東洋と西洋をどう接続するか」「自己と世界の関係をどう捉えるか」といった普遍的な課題に応答するための資源となっている。

西田幾多郎の人物像を一言でまとめるなら、「孤独な求道者」と言えるだろう。彼は名声や政治的権力から距離を置き、ただひたすらに「人間とは何か」「世界とは何か」を問うことに生涯を捧げた。その哲学は難解でありながらも、根底には切実な人間存在への関心が流れている。彼の思想に触れることは、単に一人の哲学者を理解することではなく、自らの生を根源から問い直す契機となる。入門として本章を読み終えた読者は、次章から展開される具体的な思想の核心──「善の研究」や「純粋経験」──へと歩を進める準備が整ったといえるだろう。


哲学入門 総集編3

哲学入門総集編4

マルキド・サド 哲学入門シリーズ76 第一章 サド侯爵ってどんな人?

ドナシアン=アルフォンス=フランソワ・ド・サド、通称サド侯爵(1740–1814)は、フランス文学史においても哲学史においても異彩を放つ存在である。彼の名は「サディズム」という言葉に残り、暴力と快楽を結びつけた特異な思考を象徴している。しかし、その人物像を簡単に「変態的な倒錯者」や「放縦な作家」として片付けてしまうことはできない。彼は18世紀フランスの貴族として生まれ、革命の混乱を生き延び、数十年を牢獄で過ごした。その人生は、時代の激動と思想の矛盾を凝縮したかのようであり、作品はただの猥雑な読み物ではなく、人間の自由、権力、道徳、宗教といった根本問題を徹底的に問い直すものであった。

サドは1740年、パリの名門貴族の家に生まれた。父は外交官、母は宮廷の侍女であり、彼は幼少期から宮廷文化に触れ、贅沢で洗練された環境で育った。幼い頃に叔父で司祭のジャック=フランソワ=ポール・アルフォンスに預けられ、伝統的な宗教教育を受ける。しかし、この時期に培われた宗教への違和感と反発心は、その後の著作で神と道徳を否定する姿勢へと繋がっていく。少年期から暴力的で激情的な性格を示していたと伝えられ、軍に入るとその性格はさらに強まり、戦場での経験が彼の想像力を刺激した。

20代になると、彼の奔放な性生活とスキャンダルが世間を騒がせ始める。娼婦との乱痴気騒ぎ、薬物を用いた過激な性行為、果ては暴力沙汰にまで発展することがあった。そのたびに告発や裁判が行われ、彼の名声は貴族社会の中で悪名として広まっていった。1768年にはローズ・ケラー事件が起こる。娼婦のケラーを誘拐し、鞭打ちや性的虐待を加えたとされる事件である。この事件をきっかけに彼は「怪物」として知られるようになり、以後も淫蕩と暴力の象徴として語られるようになった。しかし、ここで重要なのは、彼がただ放埓な享楽に生きたのではなく、その行為を「自然の権利」「人間の自由」と結びつけて論理的に正当化していった点である。サドにとって欲望の追求は単なる個人的放縦ではなく、むしろ人間存在の根源的な真理を探る行為でもあった。

サドの人生を語るうえで欠かせないのが牢獄生活である。彼は生涯の半分以上を投獄されて過ごした。バスティーユ牢獄やシャラントン精神病院に幽閉され、自由を奪われながらも膨大な著作を生み出した。代表作『ソドム百二十日』は、まさに獄中で小さな紙片に書き連ねられたものであり、彼は暗闇と孤独の中で欲望と権力の体系を構築していった。獄中での生活は過酷であったが、彼にとっては想像力を研ぎ澄ませ、極限状況の中で人間の本性を見つめる契機となった。

革命期において、彼の立場は微妙であった。貴族でありながら革命に共感を示し、一時は革命裁判所の陪審員まで務めた。しかし、彼の思想は単純な共和主義者や啓蒙思想家の枠に収まらず、時に反宗教的過激思想として忌避され、また時に反逆的危険人物として恐れられた。彼は「人間は自然の産物であり、自然の衝動に従って生きるべきだ」と考えたが、それはキリスト教的道徳や啓蒙主義的合理主義と真っ向から対立するものであった。そのため、サドは生涯を通じて居場所を失い続け、牢獄と監視のもとで暮らさざるを得なかった。

しかし、彼の思想は単なる逸脱の記録にとどまらない。そこには徹底した「自由」への意志があった。人間は欲望を持つ存在であり、その欲望を社会規範や宗教によって縛るのは不自然だ、とサドは主張した。殺人や虐待すら、自然の衝動に基づけば否定できない──この徹底的な思考の過激さこそ、後世の思想家たちを魅了した理由である。シュルレアリストたちはサドの中に抑圧からの解放を見出し、バタイユは彼を「極限の思想家」と呼び、フーコーやドゥルーズは権力や欲望の哲学を考えるうえで不可欠の存在として再評価した。

サドの人物像を一言で表すのは難しい。彼は享楽者であり、暴君であり、また牢獄に囚われた作家であり、そして自由を徹底的に突き詰めた哲学者でもあった。彼の生涯はスキャンダルに満ちていたが、その背後には「人間とは何か」「自由とは何か」「道徳や宗教はどこから生じるのか」といった根源的な問いが横たわっている。サドを知ることは、私たちが普段避けて通る暗い領域、つまり欲望や暴力の真実を直視することにほかならない。

1814年、彼はシャラントン精神病院で孤独に死を迎えた。死後もその名は長らく「卑猥で忌まわしい作家」として封印されていたが、20世紀になってようやく思想家や文学者の間で真剣に論じられるようになった。サドの人生は破滅的であったが、彼の思想は現代に至るまで生き続けている。サディズムという言葉が示すように、彼は人間の心の奥底に潜む衝動を暴き出し、それを恐れず描ききった。その人物像を理解することは、人間そのものを理解する試みでもあるのだ。


哲学入門 総集編4


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